2008年7月27日日曜日

「オウムの黒い霧」と「オウム真理教事件完全解読」より 6

 それにしても信者達はなぜ殺人に対して躊躇がなかったのか。下里が「彼らの行動は、大真面目で徹底した 『戦争の論理』で貫かれているのだ。平和な社会では無差別テロは重大犯罪であるが、戦争なら市民への無差別爆撃は当然である」と記したのに照応するかのように、竹岡はこう結論づける。

「麻原がオウム真理教に国家的な様相を与えたのは殺人を戦争として行うためであった。オウム真理教が国家であり、それが悪魔の傀儡である別の国家によって弾圧され攻撃されているとなれば殺人は正当防衛のための戦争であるという大義名分を持つことになる。いかなる矛盾もない。それゆえに心の葛藤もなく殺人を行うことができるというわけである。」(234ページ)。

 一方、下里はオウムの変貌の理由を「巨額の資金、国際マフィアとのコネ、外国軍装備品の獲得、自衛官メンバーの加入といった「物質的基礎」が初めに生じ、それに応じて教義の変化が生まれた。けっしてその逆ではない。教義の変化は、現実の進行に押されるようにして進んだのではないか。意識(教義)が存在を規定したのではなく、存在が意識を規定したのである」としている。この二つの説明は破綻なく共存しうる。つまり、どちらがより事実に近いか、ということではなく、立脚点は違え、どちらも本質を衝いた説明になっていると思う。

 竹岡は、麻原が人間の脳を薬物や機械で操作することによって、人間の尊厳も社会のルールも消し去ることができることを証明した、「この非人間的な地平が私たちの新たな現実となった」とし、「ものをもてば幸せになる」時代を超えて、新たなモラル(「新しい文化システム」)を作り出すことを呼びかけている。 私も同感だ。だが、この書物が出版されてから、9年経って変化しことといえば、「ものをもてば幸せになる」時代からさらに酷くなり、「マネーさえあれば」の世界のただ中にある。
 
 

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