大澤は無神論に関して興味深い指摘をしている。
大澤は、スラヴォイ・シジェクがマルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」におけるある分析に言及していることについて紹介する。
当時の「秩序党」はブルボン派とオルレアン派の連携によって形成されていたが、彼らは互いの共通性である「王党派であること」によって連合しているわけではない。それでは、自分たちが戴く王が違う(ブルボンとオルレアン)のだから連帯のしようがない。ではどうやって連合するか—すなわち「王党派一般」になるためには「王党派そのものの否定である共和派になる」ほかない。これと同じことは宗教についても言えるのはないか、と。
つまり異なる宗教同士が連帯するには、それぞれの宗教の伝統に共通性を求めても得るものはない。それは、二つの王党派の共通成分によって王党派が連帯できなかったのと同じだ。とすれば、
「諸宗派の連帯と融合のための唯一の解決法は、宗教一般の否定、すなわち無神論に依拠することである」(253ページ)
とする。
これに関連してさらに、マックス・ウェーバーの、キリスト教の徹底化が近代への起爆剤になったとの思想から、
「無神論は、神への信仰の単純な否定ではなく、むしろ、信仰の内側から、それを食い破るようにして出てくるということ、これである」(255ページ)
と記している。
未来を何とか希望あるものとしてつないでいくという意味では、こういう連帯の方法こそが、対立から殺し合いに簡単に進展してしまう現状を脱するための適切な解決方法であるように私も思う。
2008年6月30日月曜日
2008年6月16日月曜日
ネオコンとナチズム—「アメリカは正気を取り戻せるか」
「アメリカは正気を取り戻せるか」(ロバート・B・ライシュ、東洋経済新報社)を読んで。
まずこれまで気にも留めていなかったこと—
「1980年代当時株式市場に投資していたアメリカ国民は比較的少数だったが、1990年代には新たに2700万人もの投資家が登場し、10年間で50%以上もの増加となった。2001年にはアメリカ全世帯の半数ほどが自分たちの蓄えを・・・」 (106ページ )
→アメリカ人はもともと—株式市場が整備されて以来—株式投資により利殖を図ってきたのかと思っていたがそうではないらしい。なぜそんな風に思いこんでいたのだろう。
さて、以下、「ラドコン(Radcon)」というのは「ラディカル・コンサバティブ(radical conservatives)」の略称で、よく言われるネオコンとほぼ同じ人々のことを指している。
「ラドコンにとって規律を行き渡らせる究極の道具は市場である」(150ページ)
「当時、フリードマンの提案をまともに受け取った人はほとんどいなかったが、ラドコンが支配するようになった今、その考えが主流となった」(152ページ)
「ラドコン社会学者のチャールズ・マレーは次のように言う。『今日のアメリカで、あなたが本当に頭がよければ、おそらく本当によい学校に入ることになり、収入のよい仕事に就くことになり、給料も上がり続けるだろう』」( 157ページ )
→では、右翼であるラドコン(ネオコン)と市場原理主義者の共通の「根」は何か。
「当時(南北戦争後の好景気時代『金メッキ時代』の支配的な経済理論は自由放任であり、その哲学的ルーツは社会ダーウィニズムとして知られるようになった。 今生きているアメリカ人でハーバード・スペンサーの著述をなにがしかでも読んだことのある人はほとんどいないだろうが、彼の著作は19世紀の最後の30年間、アメリカに強烈な影響を与えた。・・・ (ハーバード)スペンサーと彼の信奉者にとっては、市場は人格を発展させる場であった。勤労は人々に生き残るために決定的に重要な道徳的規 律をもたらした。生きることは、最も強い道徳的素質を持っている者だけが生存できる競争的闘争であった。・・・「適者生存」という言葉をつくったのは チャールズ・ダーウィンではなくスペンサーだった。・・・スペンサーの熱心な信奉者だったイェール大学の政治・社会学教授ウィリアム・グラハム・サムナー はこれを簡潔に説明した。『金持ちは生き残り繁栄するに値するが、貧者はそれに値しないだけの話だ。』」(159〜160ページ)
→強い者が勝つ、あるいは勝った者が強いのであり祝福されるべきである、と考えるところが、そのまま市場原理主義の考え方に当てはまるということなのだろう。
一方、ラドコンが積極的に他国・他民族を侵略してよしとするのもまた、勝てば良い、負けた者は劣っているのだから虐殺されても文句は言えないとの考えが根にあるということになる。「強い者が勝つ」あるいはさらに進んで「どんな手を使っても勝てばいい、勝った者が強い者で あり、祝福されるべきである」という弱肉強食の論理は、市場原理主義の典型的なたとえだが、実はこれは侵略戦争の論理でもあるのではないか。
市場原理主義とラドコンの共通性を論じるのに、ハーバート・スペンサーのことが取り上げられたが、彼の文章はマフムード・マムダーニ著「アメリカン・ジハード」でも 「付随的な損害を斟酌せず、完璧な幸福という大計画を実行に移しつつある勢力は、邪魔になる部族の人類は絶滅に追い込む」(注の1ページ)と紹介され、この時代の思想傾向がどのようなものであったかが次のように記されている。
「『帝国主義が劣等人種を地上から排除することによって文明に貢献した』」とする考え方は、自然科学、哲学から人類学や政治学に至る、十九世紀のヨーロッパ思 潮の中に広く表明されている。イギリス首相、ソールズベリ卿が一八九八年五月四日、アルバート・ホールで行った有名な演説で、「大雑把に言って、世界の民 族は生き延びていく民族と滅びていく民族の二つに分けられる」と述べたとき、ヒトラーはわずか九歳、ヨーロッパの空気は『帝国主義こそ、自然の掟によれ ば、劣等人種の必然的破滅に通じている生物学的に必然のプロセスなのだ』という確信が瀰漫していた」
→マムダーニは、こうした時代思潮を背景にニュージーランドのマオリ族やドイツ領南西アフリカのヘレロ族などが絶滅させられていったとし、ヘレロ族についてはドイツの遺伝学者オイゲン・フィッシャーがその強制収容所で人種混淆の実験を行い、「ヘレロ女性とドイツ男性の混血児は心身ともにドイツ人の父親に劣っていた」などといった結論を引き出して「人間の遺伝原理と人種的予防措置」を著したとする。さらに、それをヒトラーが読み、フィッシャーをベルリン大学の学長に任命し、その教え子の1人が、アウシュビッツで人体実験を行ったヨーゼフ・メンゲレだったという関連性を指摘して、19世紀後半の「適者生存」—社会ダーウィニズムが20世紀前半のナチズムを人脈的にも思想的にも支えたことを明らかにしている。
もちろん「ラドコン・イコール・ナチズム」と短絡的に考えてはならないが、「強者の論理」であったり「人種差別的」であったりする点には、両者に共通性を感じないわけにはいかない。世界の「衆人環視」の中、あの時代もこの時代も「大虐殺」が公然と行われたことも、両者の同質性を疑わさせるに十分ではないだろうか。
まずこれまで気にも留めていなかったこと—
「1980年代当時株式市場に投資していたアメリカ国民は比較的少数だったが、1990年代には新たに2700万人もの投資家が登場し、10年間で50%以上もの増加となった。2001年にはアメリカ全世帯の半数ほどが自分たちの蓄えを・・・」 (106ページ )
→アメリカ人はもともと—株式市場が整備されて以来—株式投資により利殖を図ってきたのかと思っていたがそうではないらしい。なぜそんな風に思いこんでいたのだろう。
さて、以下、「ラドコン(Radcon)」というのは「ラディカル・コンサバティブ(radical conservatives)」の略称で、よく言われるネオコンとほぼ同じ人々のことを指している。
「ラドコンにとって規律を行き渡らせる究極の道具は市場である」(150ページ)
「当時、フリードマンの提案をまともに受け取った人はほとんどいなかったが、ラドコンが支配するようになった今、その考えが主流となった」(152ページ)
「ラドコン社会学者のチャールズ・マレーは次のように言う。『今日のアメリカで、あなたが本当に頭がよければ、おそらく本当によい学校に入ることになり、収入のよい仕事に就くことになり、給料も上がり続けるだろう』」( 157ページ )
→では、右翼であるラドコン(ネオコン)と市場原理主義者の共通の「根」は何か。
「当時(南北戦争後の好景気時代『金メッキ時代』の支配的な経済理論は自由放任であり、その哲学的ルーツは社会ダーウィニズムとして知られるようになった。 今生きているアメリカ人でハーバード・スペンサーの著述をなにがしかでも読んだことのある人はほとんどいないだろうが、彼の著作は19世紀の最後の30年間、アメリカに強烈な影響を与えた。・・・ (ハーバード)スペンサーと彼の信奉者にとっては、市場は人格を発展させる場であった。勤労は人々に生き残るために決定的に重要な道徳的規 律をもたらした。生きることは、最も強い道徳的素質を持っている者だけが生存できる競争的闘争であった。・・・「適者生存」という言葉をつくったのは チャールズ・ダーウィンではなくスペンサーだった。・・・スペンサーの熱心な信奉者だったイェール大学の政治・社会学教授ウィリアム・グラハム・サムナー はこれを簡潔に説明した。『金持ちは生き残り繁栄するに値するが、貧者はそれに値しないだけの話だ。』」(159〜160ページ)
→強い者が勝つ、あるいは勝った者が強いのであり祝福されるべきである、と考えるところが、そのまま市場原理主義の考え方に当てはまるということなのだろう。
一方、ラドコンが積極的に他国・他民族を侵略してよしとするのもまた、勝てば良い、負けた者は劣っているのだから虐殺されても文句は言えないとの考えが根にあるということになる。「強い者が勝つ」あるいはさらに進んで「どんな手を使っても勝てばいい、勝った者が強い者で あり、祝福されるべきである」という弱肉強食の論理は、市場原理主義の典型的なたとえだが、実はこれは侵略戦争の論理でもあるのではないか。
市場原理主義とラドコンの共通性を論じるのに、ハーバート・スペンサーのことが取り上げられたが、彼の文章はマフムード・マムダーニ著「アメリカン・ジハード」でも 「付随的な損害を斟酌せず、完璧な幸福という大計画を実行に移しつつある勢力は、邪魔になる部族の人類は絶滅に追い込む」(注の1ページ)と紹介され、この時代の思想傾向がどのようなものであったかが次のように記されている。
「『帝国主義が劣等人種を地上から排除することによって文明に貢献した』」とする考え方は、自然科学、哲学から人類学や政治学に至る、十九世紀のヨーロッパ思 潮の中に広く表明されている。イギリス首相、ソールズベリ卿が一八九八年五月四日、アルバート・ホールで行った有名な演説で、「大雑把に言って、世界の民 族は生き延びていく民族と滅びていく民族の二つに分けられる」と述べたとき、ヒトラーはわずか九歳、ヨーロッパの空気は『帝国主義こそ、自然の掟によれ ば、劣等人種の必然的破滅に通じている生物学的に必然のプロセスなのだ』という確信が瀰漫していた」
→マムダーニは、こうした時代思潮を背景にニュージーランドのマオリ族やドイツ領南西アフリカのヘレロ族などが絶滅させられていったとし、ヘレロ族についてはドイツの遺伝学者オイゲン・フィッシャーがその強制収容所で人種混淆の実験を行い、「ヘレロ女性とドイツ男性の混血児は心身ともにドイツ人の父親に劣っていた」などといった結論を引き出して「人間の遺伝原理と人種的予防措置」を著したとする。さらに、それをヒトラーが読み、フィッシャーをベルリン大学の学長に任命し、その教え子の1人が、アウシュビッツで人体実験を行ったヨーゼフ・メンゲレだったという関連性を指摘して、19世紀後半の「適者生存」—社会ダーウィニズムが20世紀前半のナチズムを人脈的にも思想的にも支えたことを明らかにしている。
もちろん「ラドコン・イコール・ナチズム」と短絡的に考えてはならないが、「強者の論理」であったり「人種差別的」であったりする点には、両者に共通性を感じないわけにはいかない。世界の「衆人環視」の中、あの時代もこの時代も「大虐殺」が公然と行われたことも、両者の同質性を疑わさせるに十分ではないだろうか。
2008年6月9日月曜日
市場原理主義は虐殺肯定の論理
規制緩和、構造改革と進められた日本の施策は「不況を脱するための処方箋」「事業者ではなく消費者の保護」といった肯定しうる動きもある一方で、郵政民営化など米国が「年次改革要望書」などによって求めてきたことを忠実に実現しようとしていると言うことができ、断定的に評価するのは難しいが、そうした要望をしている米国が政治的にはネオコンで、外に対して侵略的であり、経済的には市場原理主義—というか弱肉強食肯定—であることは忘れてはならない。
日本で進行する規制緩和や構造改革は一局面だけ見るとまともに見えても、実は米国が求めているのは規制を取っ払った市場原理主義の弱肉強食社会ではないか、という疑いの眼はつねに向け続ける必要がある。
弱肉強食の社会ダーウィニズムを基軸に持つという意味で、市場原理主義と戦争をしかける論理、侵略する論理は相同性が強い。すなわち「強い者が勝つ、弱い者は滅びる、強い者が繁栄するのは当然で弱い者は弱いという点において存在価値はない」という考え方は戦争、あるいは市場での経済的な競争のどちらにも当てはめることができるということだ。
別言すればこうも言えるだろう。市場原理主義は実は侵略戦争を肯定する論理であると。相手が弱く、劣った存在であるのなら社会の害毒でしかないので、市場原理主義は最後には「虐殺肯定の論理」にさえなり得よう。弱い者が死を余儀なくされるのは当然のことだということで・・・
日本で進行する規制緩和や構造改革は一局面だけ見るとまともに見えても、実は米国が求めているのは規制を取っ払った市場原理主義の弱肉強食社会ではないか、という疑いの眼はつねに向け続ける必要がある。
弱肉強食の社会ダーウィニズムを基軸に持つという意味で、市場原理主義と戦争をしかける論理、侵略する論理は相同性が強い。すなわち「強い者が勝つ、弱い者は滅びる、強い者が繁栄するのは当然で弱い者は弱いという点において存在価値はない」という考え方は戦争、あるいは市場での経済的な競争のどちらにも当てはめることができるということだ。
別言すればこうも言えるだろう。市場原理主義は実は侵略戦争を肯定する論理であると。相手が弱く、劣った存在であるのなら社会の害毒でしかないので、市場原理主義は最後には「虐殺肯定の論理」にさえなり得よう。弱い者が死を余儀なくされるのは当然のことだということで・・・
「ワーキングプア 日本を蝕む病」NHK取材班・ポプラ社
各章扉のグラフより
・2005年国税庁・全給与所得者の5人に1人(21.8%)が年収200万円以下
・2006年15歳〜34歳の非正規雇用者の割合27.2%
・2005年国税庁 65.5%の女性労働者が年収300万円以下、81.6%が年収400万円以下
・2004年 社保庁 年金をもらえない高齢者44万4000人
・厚生労働省 児童養護施設在所者数 1995年25,741人、2000年28,913人、2005年30,830人へ
131ページ〜
そこ(名古屋駅)から電車でわずか二十分、岐阜駅に降り立つと、まったく違った光景が眼前に広がる。目抜き通りにあったデパートが閉店、建物は解体され、無惨な姿をさらしている。・・・
戦後、岐阜市の経済を支えてきたのが、繊維産業だ。・・・しかし、海外の製品との熾烈な価格競争が繊維の街を一変させてしまった。岐阜で主に作っていたのは、元々価格を低めに設定してある大衆向けの製品だ。そこに、圧倒的に低い人件費を背景にした中国の安い製品が大量に入ってきた。岐阜の持っていた市場はたちまち新居腐れ、商品は売れ残り、問屋の倒産が相次いだ。・・・倒産のドミノ倒しが始まった。
—そして
朝、岐阜市内では自転車に乗って職場へ向かう中国人の姿が、あちこちで見られる。・・・同じ職場(繊維産業)で働く日本人は1万人弱。つまり、労働力の実に四割が外国人の研修生と実習生という状況なのだ。
—商売で中国製品にやられ、労働市場で中国人を肇とした外国人に浸食されるそうした状況は、庶民レベルでの反中国感情の素になっているに違いない。ここには輸入中国製品の流入によって追い立てられるように退場していく中小企業の姿がはっきりと描かれている。のみならず繊維産業が盛んで今まさにそれが衰退に瀕している岐阜県などでは中国に太刀打ちできなくなったがゆえに、人件費を抑えるために、中国人研修生を雇い、労働市場から日本人が駆逐されていっている(正確には、日本人を雇う給与を出せないので、結果、苦肉の策として中国人を雇い入れるという順番であり、日本人労働者がモロに中国人に駆逐されるわけではないのだが)。
・2005年国税庁・全給与所得者の5人に1人(21.8%)が年収200万円以下
・2006年15歳〜34歳の非正規雇用者の割合27.2%
・2005年国税庁 65.5%の女性労働者が年収300万円以下、81.6%が年収400万円以下
・2004年 社保庁 年金をもらえない高齢者44万4000人
・厚生労働省 児童養護施設在所者数 1995年25,741人、2000年28,913人、2005年30,830人へ
131ページ〜
そこ(名古屋駅)から電車でわずか二十分、岐阜駅に降り立つと、まったく違った光景が眼前に広がる。目抜き通りにあったデパートが閉店、建物は解体され、無惨な姿をさらしている。・・・
戦後、岐阜市の経済を支えてきたのが、繊維産業だ。・・・しかし、海外の製品との熾烈な価格競争が繊維の街を一変させてしまった。岐阜で主に作っていたのは、元々価格を低めに設定してある大衆向けの製品だ。そこに、圧倒的に低い人件費を背景にした中国の安い製品が大量に入ってきた。岐阜の持っていた市場はたちまち新居腐れ、商品は売れ残り、問屋の倒産が相次いだ。・・・倒産のドミノ倒しが始まった。
—そして
朝、岐阜市内では自転車に乗って職場へ向かう中国人の姿が、あちこちで見られる。・・・同じ職場(繊維産業)で働く日本人は1万人弱。つまり、労働力の実に四割が外国人の研修生と実習生という状況なのだ。
—商売で中国製品にやられ、労働市場で中国人を肇とした外国人に浸食されるそうした状況は、庶民レベルでの反中国感情の素になっているに違いない。ここには輸入中国製品の流入によって追い立てられるように退場していく中小企業の姿がはっきりと描かれている。のみならず繊維産業が盛んで今まさにそれが衰退に瀕している岐阜県などでは中国に太刀打ちできなくなったがゆえに、人件費を抑えるために、中国人研修生を雇い、労働市場から日本人が駆逐されていっている(正確には、日本人を雇う給与を出せないので、結果、苦肉の策として中国人を雇い入れるという順番であり、日本人労働者がモロに中国人に駆逐されるわけではないのだが)。
「サブプライム後に何が起きているか」(春山昇華、宝島新書)
「サブプライム後に何が起きているか」(春山昇華、宝島新書)
109ページ
「近年の中東諸国の国富ファンドの肥大化は、欧米の金融機関に代わって、中国や中東諸国が資金の再配分の権力を持ちつつあることを意味する。資本再配分権力は金融機関に対する生殺与奪の最高権力だ。自国の金融機関が海外資金で救済され牛耳られるという事態の拡大は、アメリカがこれまで保持してきた流動性配分権力を失うこと、つまり帝国として覇権の一部を失うことを意味する。」
—「流動性配分権力」。たしかにこれは権力であるが、金融システムそのものは欧米が作り出したもの。つまり土俵は欧米に握られている。
またアメリカの覇権の核心は、けっきょくのところ基軸通貨ドルを守る軍事力ではないだろうか。軍事力においてアメリカを物理的に上回ることは長期間にわたって不可能だろう。であるならば、この軍事力は武装解除されなければならない。そうならなければ覇権は移行しない。
何よりも、中東諸国、中国、米国、ヨーロッパと敵対的に描くことに意味はあるのだろうか。中東と中国が欧米を押さえつけて君臨する図?そうではなく、サブプライムで欧米の金持ちたちのシステムが傷んだので、中東の金持ちがお仲間として助太刀に来た、それだけではないのか。
こういう視点からみると、「次はアジアの時代」とは「中国の時代」というご託宣も、「だからどうした。金持ち対貧乏人の構図は変わらないんだろう」と言いたくなる。
109ページ
「近年の中東諸国の国富ファンドの肥大化は、欧米の金融機関に代わって、中国や中東諸国が資金の再配分の権力を持ちつつあることを意味する。資本再配分権力は金融機関に対する生殺与奪の最高権力だ。自国の金融機関が海外資金で救済され牛耳られるという事態の拡大は、アメリカがこれまで保持してきた流動性配分権力を失うこと、つまり帝国として覇権の一部を失うことを意味する。」
—「流動性配分権力」。たしかにこれは権力であるが、金融システムそのものは欧米が作り出したもの。つまり土俵は欧米に握られている。
またアメリカの覇権の核心は、けっきょくのところ基軸通貨ドルを守る軍事力ではないだろうか。軍事力においてアメリカを物理的に上回ることは長期間にわたって不可能だろう。であるならば、この軍事力は武装解除されなければならない。そうならなければ覇権は移行しない。
何よりも、中東諸国、中国、米国、ヨーロッパと敵対的に描くことに意味はあるのだろうか。中東と中国が欧米を押さえつけて君臨する図?そうではなく、サブプライムで欧米の金持ちたちのシステムが傷んだので、中東の金持ちがお仲間として助太刀に来た、それだけではないのか。
こういう視点からみると、「次はアジアの時代」とは「中国の時代」というご託宣も、「だからどうした。金持ち対貧乏人の構図は変わらないんだろう」と言いたくなる。
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