2008年4月21日月曜日
イラク—麻痺する倫理と思考
似たようなニュースに食傷する、ということがある。イラクにおける「爆弾テロ」の報道などはその典型だろう。「バグダッド北部でテロが起き、10人が死んだ」と報じられても、以前ほど気にならなくなっている。それぞれの死は取り返しがつかないが、長期にわたり毎日のように報じられると、人間は新鮮な関心を持ち続けられなくなる。同様に、その原因をつくった当事者である米国に対する批判も、何か力がこもらなくなっていく。
おもえばアメリカは不定期的にではあるが、常に何らかの戦争をしてきた。「共産主義から自由世界を守るため」であり「独裁あるいは専制国家に民主主義を広めるため」だとされた。しかし今では皆が「どんな大義や正義があるのであっても、こんなに民間人が巻き添えで殺されるのはおかしい」と思わずにはいられない状況に陥っている。
ふつう「正義」という質量のない概念と、死者数という「量」と並べて比べはしない。してはならないことでもある。しかし人は無意識にそれをしている。「いくらなんでも酷すぎるのではないか」と。ウィキペディアを見るとイラク戦争で100万人のイラク人が亡くなってる。人口構成比から考えると、膨大な数の子どもたちが死んだことになる。
これら死んでしまったイラク人を私たちはどう受け止めるべきなのか。当初、開戦の理由とされた大量破壊兵器もアルカイダとの同盟関係も見つけだすことができなかった。ブッシュ大統領は、それを疑うに足る理由が十分にあった、といった弁解をしていたが、これほどの大量殺戮を前にしてはそんな弁も説得力を著しく欠くことは明らかだ。けれども事が単純でないのは、ブッシュの米国を批判すれば済んでしまうほどわれわれはシンプルな立場にはいないという事情がある
私やあなたの立場—というのは、言うまでもないことだがアメリカと日米安保条約によって同盟関係にある日本の一国民という立場である。さて、この立場を踏まえたうえでこの問題について考えようとすると、実はブッシュ批判どころではなく、最初から結論が狭い範囲に限定されてしまっていることに気づく。それは米国の同盟者=共犯者という立場である。
この立場を越えることは簡単なようでいてそう簡単にはいかない。米国の同盟関係であることを拒否する言説を紡ぎ続けていたとしても、その圏外に脱出するのは難しい。否応なしにわれわれは「植民地的」に支配されてしまっているからである。
このようにある限定を設けるのは不可欠な誠意だと私は考えるが、この「限定」はある諦念を生む。「何をやっても越えられないのではないか」と。それに対しては「その『限定』を意識したうえで、思考と行動を試み、越えていくしかない」と答えるしかない。植民地的に支配されているというのは、すでに日常生活のレベルで支配されているということだ。その意味で闘うきっかけはそこここに転がっているはずだ。
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